1938年,長崎市生まれ。 地元の小、中、高を卒業、関東の私立の工業大学に入学、1937年卒業。丸山製作所、NOK、ミサワホームに勤務。
私は大学時代に人生観が180度転換する体験をした。 それは大学2年次に進級する直前に前川日出夫と出会い、4日後には6畳一間での同居生活がスタートした。
同居初日のこと、11時頃床に就き、会話の中で、私が無意識に発言した「絶対だ」とか「常識だ」という言葉に、彼はそれはどういう意味なのか教えてくれという。
私は、それは常識的な言葉だろうと返したが、それは辞書的な単なる意味、解釈ではなく、普遍性の話しであることが彼の話から徐々に分かってきた。
彼はガリレオの地動説で常識が時に大きな間違いとなることを説明した。 「絶対」については、絶対的唯一神を信じるキリスト教、プラトンの「イデア論」、カントの「物自体」、ヘーゲルの「絶対精神」、など色々な事例を挙げながら説明して、これらは形而上学なものだという。
その反対の「超越的なもの」、「ものの存在」を否定するものを、仏陀の仏教、般若心経とニーチェの「神は死んだ」、で説明し、これらは反形而上学なものだと言う。
しかし、同じ20才でありながら、彼が理路整然と語る哲学や歴史の知識は、一体何で学んだものか、何に起因しているのか、長い間謎であり、不思議であった。
俺は哲学的なことは良く分からないというと、彼は、哲学は勉強や研究の対象になれば、ほぼ役立たないだろうな、何事も、話の中に引き出して、物事の本質を突き詰めて、その本体を露わにする事が、「哲学」ではないかと、俺とお前の今の話が正に「哲学をする」と言うことだという。
同居して6ヶ月程は常識ベースの持論で反論していたが、彼の考えは常識を遥かに超えていることを自覚せざるを得なかった。
前川に次々反論をしていた私は、ある日、自分の考えがおかしいと気付き、「俺が間違っていた」と謝った。6ヶ月を経てやっと素直になれた瞬間であった。
その時、自分の価値観がなんと貧しさを初めて、気付かされた。 そして初めて忘れ得ない、最高の情けなさと何とも言えない羞恥心を味わった。
前川は私に「お前さんのその小さな建物を壊し、早く更地にすることだな」と呟いた。 この言葉は私の胸の重く刻まれ、生涯私の心の糧となった。
私は、初めて、この現実の世界に常識的世界観とは異なる別の世界観があることを知った。 この時、このままでは自分の将来は無い、という強い危機感を感じた。
常識的世界観からすぐに脱出する必要性を強く感じ、自分の価値観の変容に迫られた。 私は躊躇なく、「自分の今の小さな価値観を壊し、新しい世界観を切り開いてゆく」ことを自分の一生の課題とすることを心に誓った。止むに止まれぬ決意であった。
卒業と同時に一人になり、社会に入ると日々仕事重視の生活になったが、「新しい世界観」を切り開いてゆくための試行錯誤」も始った。
私はお手本を探していたが、ついにニーチェの著作に一つを手にした.(まだニーチェの著作名すら知らなかった)。
数ページ読み進む内に私が探していた、固定観念を壊す最高のハンマーはこれだと直観した。 この日から今日までの60年間のニーチェとの格闘は記事で述べて行く。
既に、老境に入り、年相応の心身の弱体振りは隠しようもない、唯、言えることは、前川とニーチェとの出会いにより、日々生きていることの「充実感」に満たされ、20代以降、常に「強く生きる」事が出来た人生であったと思う。